☆論戦に勝つことで、なんらかの真理が樹立された例はいまだかつてない。
  そんなことを信じているのは子供だけだ(アラン)

 このフランスの思想家の書いた「幸福論」などは、日本でもかなり広く読まれている。だいたい、人が議論をするのは何のため?お互いの誤りを見つけ、正しい方向をさぐり出すためのものである。しかし、実際に人と人とが議論を始め、それが論戦に発展すると、これはもう、それぞれが自分の主張に固執し、相手の言葉の矛盾をついて相手をやりこめることに終始する。で、どちらか一方がこの論戦に勝ったとしても、負けた相手がそれに完全に納得するといったことはほとんどない。それどころか、かえって感情的なシコリを残し、問題は一向に解決しないばかりか、かえって悪化することさえもある。したがって、何かお互いのズレを修正するために話し合う場合、それがエキサイトした論戦になっては、もはや目的が失われてしまっているともいえる。営業の第一線に立つ者が、顧客と激しくいいあいをする、などというのは論外だが、同じ職場内でも、いかに無益な論戦が多いかは、自分の周囲を見まわしてみればおわかりいただけるだろう。自分の主張を述べ、相手の意見を聞く、ということは人間の集団にとっては絶対に必要なことである。しかし、言葉で相手をいい負かしても、そこからは何の成果も期待できないことを銘記すべきだ。

☆すべて商売は売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。
     売りて喜ぴ、買いて喜ばざるは道にあらず(二宮尊徳)

 二宮尊徳は江戸末期、一九世紀に活躍した農政家で、人間の経済活動と道徳の一致を根本思想にしてい
た。今日、アメリカのコンシューマリズムの輸入で消費者志向などという言葉が流行しているが、日本で
は一〇〇年以上も前に、こういうカタチで消費者志向の界想があったといっていいだろう。この二宮尊徳
は、相模国足柄下郡の百姓の子に生まれたが、子供の頃に両親が死に、おまけに洪水で自分の家の田畑が
流されてしまって、伯父の家に引きとられた。そして、畑仕事を手伝いながら寸暇を惜しんで勉強した。
これが、薪を背に本を読むあの有名な銅像の姿に象徴されれているわけだが、そのように向学心に燃えた
のも、江戸末期の疲弊した農村を救うにはどうすればよいのか、という気持ちが背景としてあったからだ。
その後、その勉強の成果と経営の才を小田原藩の家老に認められ、二九歳で家政をまかされたのがキッカ
ケで、三五歳で藩士にとりたてられ、ついには幕府からも各地の農政再建をまかされるほどになった。こ
こで「道にあらず」といっている「道」は、儒教思想に影響されたものであるが、これは、今日にも広く
解釈して立派に通用するといえよう。商売というものは従来、とかく売り手本位に考えられがちのもので
あった。その場合の「道」すなわち価値基準は、儲かれぱよいということになる。しかし、儲からない商
売は売り手にとってなんの意味もないものになってしまうが、それだけでいいかどうか。買い手の側の立
場で考えれば、その商品を買うことによって大いに便益を得る、つまり喜べるような買い物でなければ意
味がない。このように、取り引きというものは買い手、売り手双方の「喜び」が成立することによってて
初めて取り引きといえるのである。どちらか一方が犠牲になる、つまり喜ばない売り買いは正常な取り引
きとはいえないし、そういう関係は長続きするものでもない、ということをこの言葉は教えてくれている。

☆古びた薪ほどよく燃える。古い酒ほど味がよい。古い友人こそ信用できる。
          そして、古い著作ほど読みごたえがある(アミエル)

 新刊書ブームの昨今では、あまりピンとこない言葉かもしれない。しかし、自分の教養、あるいは人生
観の参考としての読書を考えてみる場合、いわゆる古典の価値というものは決して無視することの出来な
いものなのである。
 そんな、昔の人の書いた本が今日役に立つのかい、というかもしれないが、こういう考え方は正しくは
ない。なぜなら、古典といわれるような作品は時代を超えて、人々の共感を得た真実を語っているからで
ある。一〇〇〇年前の人間も、今日の人間も、その心情においては全く変わっていないといっていい。変
わっているのは時代環境だけであり、それにともなう生活様式が変化したということである。したがって
、時代を超えて生き残ってきた著作というものはそれなりに、多くの人々の評価を得てきた、ということ
であり、それだけ価値も高いのだ。それにひきかえ、どんどん新刊される本の中身というものは、まだ評
価が定まっていない未知数のものである。果たして、そこに書いてあるのがよいことであるのかどうか、
そこのところはわからない。したがって、ベスト・セラーだからといって飛びついて読んでみても、果た
して自分のためになるものかどうか。そこへゆくと、世に古典といわれて今日に伝えられている著作はす
べて、その評価の定まったものであり、それぞれに読みごたえのある内容をもっている、というわけだ。
だから、昔の本をバカにしてはいけないのである。出版されて一年たたない本は読むな、というようなこ
とをいった人もいる。くだらない本なら一年たたぬうちに消えてしまうから、という意味であろう。読書
というものはやはり、なんでもかんでも読めばよいというものではない。中身の充実したものを選んで読
むようにしたいものである。